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氷上回廊

森林管理の視点から

森林動物研究センターとはどのような施設ですか。

森林動物研究センターは野生動物、主に中型大型の哺乳類を適切に管理するための研究や対策をおこなう施設です。業務部と研究部に分かれていまして、研究部は科学的なデータを分析し、野生動物の管理をどうしていくかの提言をおこない、業務部がそれを実際に行政施策に落とし込んでいくとともに、農業被害などの被害対策の普及や指導、人材育成に携わっています。

先生の専門の研究分野について教えてください。

当センターには6名の研究員がいまして、それぞれ専門分野が異なっているんですけれど、私はその中で唯一、植物が専門の研究員で、主に森林の管理に関わる部分を担当しています。 ─と言うことは、野外での調査が多いのですね。

フィールドが森林ですので、野外調査が非常に多く、フィールドワーク7、デスクワーク3くらいの割合ですかね。基本的にはモニタリングデータを全県的に収集して、その結果を分析し、いろいろな施策に反映していきます。ですから、兵庫県全域の森林を対象に毎年、県下何百地点の調査地点を回って調査をしているんですよ。

研究のやりがいを感じるのはどんな時ですか。

研究により知られていかなった問題や課題が明らかになって、きちんと行政施策の中で解決されていくということが、世の中の役に立っている感じがしますね。

丹波は「獣害の先進地」

県内各地の森林を回って、印象深いことは何ですか。

シカによって森林が荒らされて生態系が衰退している状況が、兵庫県で非常に深刻になっているんです。ですからその問題の解決に向け、シカの研究に力を入れています。 ─特にどのエリアの被害が深刻ですか。

特にひどいのは但馬ですね。これまであまりシカがいなかったところなのですが、逆に爆発的に増えて、農業被害も生態系被害も深刻になっているというのがいまの状況です。

そこから山を隔てた丹波エリアの被害状況はいかがですか。

丹波はかなり昔から獣害がありまして、言うなれば「獣害の先進地」みたいなところですので、被害対策が進んでいて、捕獲が進んでシカは減少傾向にあります。ある程度農業被害の軽減や植生の回復がみられてきているところもありますので、それなりの対策の効果が出てきている感じです。

と言うことは、丹波はもう安心して良いのですね。

いえいえ、十分にシカが減った訳でも、被害がなくなった訳でもありません。但馬ほどではありませんが、被害状況は「中程度」といったところで、まだまだ注意や対策が必要なレベルにあります。

気が付いたら爆発的に増加

そもそも、シカはなぜ増えてしまったのでしょうか。

シカに関しては、最大の原因は行政による保護政策の効果だと思います。もともと明治から戦中くらいにかけて野生動物が乱獲されて、シカも戦後すぐくらいまでは絶滅寸前という状態だったのです。それで、保護政策がとられて1948年にメスジカの狩猟が禁止になったことで徐々に増えていき、1980年代頃から少しずつ林業被害が出てきて、気が付いた時には爆発的に増えていたという状況ですね。

丹波が比較的早くからシカの害に遭っていたということは、禁猟後最初に増えていったエリアということですか。

そうですね。シカは1970年代までは本当に絶滅が心配されていましたが、その頃に兵庫県内でもちょこちょこシカが残っている地域があったのです。丹波地域のその一つでして、そういったところから分布が再拡大していったという状況なのです。

絶滅が危惧された時期に丹波にシカが残っていたのはなぜなのですか。

1970年くらいの調査によれば、兵庫県で断片的にシカの分布が残っていたのは、内陸を中心にした標高の高いエリアということがわかっています。やはり、山が深くて捕獲しにくかったからではないかと考えられます。

県内のシカの数は丹波市の人口の2.5倍

シカは兵庫県でどれくらい生息していると推計されていますか。

令和2年度末時点でだいたい16万頭です。丹波市の人口は約6万5千人ですから、その2.5倍くらいですかね。捕獲頭数は令和2年度が年間約4万6千頭です。現在の生息区域は阪神地域を除くほぼ全県にわたり、いま西宮の名塩あたりまで生息区域が南に拡大してきていますが、このラインが破られると六甲山系に入ってくるでしょう。また、淡路島にも生息していまして、諭鶴羽山周辺では被害も深刻です。

野生動物の個体数はどのように把握していくのですか。

動物は山の中にいますので、一頭一頭数えることができません。ですから、何らかの生息密度の指標をとり、統計的な手法で個体数を推計していきます。現実的な値を出すのはこれまで結構難しかったのですが、最近になって信頼性のあるデータの取得や分析が可能になってきました。

例えばシカですと、具体的にどうやって調査するのですか。

まずはシカの糞塊(一回に排泄する糞の塊)の調査ですね。県内には100ルートくらい決まったルートがあるのですけれど、毎年そこを約5km歩いて見つけたシカの糞塊の数を数えつつ、その状態を確認し、そのデータを生息密度の1つの指標にしています。また、猟師さんが猟に出たときの目撃情報も指標にしています。兵庫県を5km四方のメッシュで区切って、どのメッシュに猟に出てその日何頭シカを見たかを記録してもらって、その集計値の変動をみています。この2つの指標を基に、密度を推計していきます。

なぜ指標が2つあるのですか。

どうしても指標が1つだと、変なバイアスがかかる怖れがあるからです。例えば、糞塊の調査は秋におこなうのですけれど、気温が高いと糞虫の活動が活発になり糞塊の分解が速くなってしまうので、調査時期が暑い年は低めに、寒い年は高めに数値が出てしまうのです。ですから、複数の指標で評価することが大切になります。

科学的なモニタリングが重要

ちなみに、クマもシカと同様に糞を頼りに集計するのですか。

動物によって調査の手法は異なります。クマの糞は見つけにくいので、労力的にちょっと困難ですね。ですから、標識再捕法という方法を採用しています。例えばシカやイノシシのわなにかかったクマは、目的外捕獲、錯誤捕獲になりますので放獣するのですね。その際にタグを付けておくのです。タグが着いた個体がまたどこかでわなにかかる訳なんですが、例えば、20頭タグを付けて放獣して、その後5頭捕獲してそのうち1頭にタグが着いていたら、20×5で100頭いるだろうと推計できます。

放獣の際にGPSを着けて調査もしているそうですが。

GPSによる追跡調査に関しては、機器がまだ高価ですので、全頭ではなく一部の個体に限られます。全県的に調査するとなると、標識再捕法のように比較的簡単かつ安価で継続的にデータを取ることができる方法ということになります。

追跡調査をおこなっているのはクマだけですか。

クマのほか、サルでも精力的におこなっています。シカに関しては以前、一時期だけやっていました。

いずれにせよ、どんな動物でも客観的なデータが鍵ということですね

野生動物が増えすぎた理由のひとつに、かつて科学的なモニタリング調査がなかったことも挙げられます。だから、ものすごく増えるまで増えていることがわからなかったのですね。個体数管理という点では、ある意味、管理に失敗したと言えるかもしれません。

シカが土砂崩れの原因にも

シカが増え過ぎると、森にどのような影響があるのでしょう。

森林の持っている公益的機能に影響が出ているのが一番心配です。シカの食害で森林の下層植生がなくなると表土がむき出しになり、土壌浸食が起き、地面に水が染み込みにくくなるので、森林の有する河川の流量調整機能が低下します。このことは、水害や土砂崩れなどの災害に何らかの影響があります。また、森林が伐採された跡地がシカの食害に遭うと、森林が再生せず荒廃地みたいになることはよくあり、実際に豪雨時にそういうところが崩れています。

生物多様性にも影響がありそうですね。

相当大きなインパクトがあると思います。例えばウグイスは藪の中に営巣しますので、下層植生が食害されると巣を作ることができません。実際に私たちの調査では、下層植生が衰退したところではウグイスの密度が減っているという結果が出ています。また、昆虫にも影響があり、幼虫がカンアオイという森の中に生える草を食べて成長するギフチョウは、全県下で激減している状況です。

野生動物にも影響は出ていますか。

まだきちんと分析できていないのですが、イノシシも下層植生を好みますので、シカが増えたところはイノシシの密度が減っているという傾向がみられます。また、兵庫県外のケースになりますが、シカが増えるとカモシカが減ってくるという報告もあります。

稀少植物をシカから守るために

シカの食害を防ぐためにはどうすれば良いですか。

増えすぎていますので、根本的には捕獲によって生息密度を下げることが必要ですけれど、そんなに簡単にすぐできることではないので、補完対策として森林内に植生を保護するための柵を設置することも必要です。柵が設置できないような場所に生息する稀少な植物については、移植したり種子をとって増やしたりすることも必要です。

農業にも被害が出ていますよね。

実際にシカの胃の中や糞からは農作物が出てくることもあります。下層植生がなくなって山の中に食べるものがない場合は、人里に出てきて農作物に執着するケースが出てきます。

森の状況からクマの出没を予測

丹波地域のクマの状況はいかがですか。

丹波はもともとクマの生息分布外なんですけれど、だんだんと生息分布域が拡大してきまして、最近は丹波市も熊の生息域内に入って徐々に出没情報が増えています。いまは兵庫県のレッドデータブックのAランクから要注目種にまでランクが低下し、絶滅の危険が軽減したということで、狩猟も解禁されるようになって比較的安定して個体数を維持している状況です。

クマが人里に出てくるのは、森の状況と関係があるのですか。

ドングリの影響は非常に大きいですね。ドングリの豊凶は年変動がものすごく大きいのですが、ドングリが凶作になると人里に出没しやすくなります。いまちょうどドングリの豊凶調査をおこなっていますが、そのデータを用いたクマの出没予想はかなり高い精度で出せるようになってきています。最近はクマが絶滅の危機から抜け出したこともあり、クマの有害捕獲が進んできて、人里に出てくる個体が捕獲された結果、凶作の年でも以前よりはクマの出没が少なくなっています。

水分れは遺伝の「分水嶺」

日本一低い分水嶺は、生物にどのような影響を与えていますか。

シカもそうなのですが、兵庫県あたりを境に遺伝構造が東と西で分かれる動物が多いんですよ。その理由は明確にわからないですが、日本一低い分水嶺と関係があるのかも知れません。太平洋側と日本海側を一番結びやすいので、古代から人の活動が盛んで、その影響でかなり早い時期に動物たちの移動が分断された可能性があります。

植物ではいかがですか。

最終氷期が終わり(約12000年前)、温暖化した後に氷上回廊を通って若狭湾の方へ進出した植物群があります。ヤマモモやカナメモチなど、日本海側では若狭湾周辺にしか分布していない南方系植物って結構あるんですよ。

丹波の森を守るために

丹波市と共同で活動されていることがあると聞きましたが。

丹波市と一緒に、森林動物研究センターの所有林で針葉樹人工林を広葉樹林に変える実験をおこなっています。丹波市のシカによる下層植生の食害の度合いは、中程度のレベルにあります。針葉樹人工林はどうしても管理が必要なのですが、経済性が見込めない場合はこれを伐採等して、広葉樹の自然林に誘導していこうというのは政府の方針として大枠としては決まってはいるんですけれど、実はそのための方法論は必ずしも確立されていないのです。丹波の風土ですと、普通は針葉樹人工林を伐採して放置すれば広葉樹が茂る自然林に遷移していくのですが、シカが多いと成長前の樹木を食害してしまうので、森林の再生が進まず荒廃してしまうのです。そこで、アセビなどのシカの好まない樹種を植林したり、柵の設置、伐採の度合いを変えるなど様々な条件を組み合わせた広葉樹林への転換実験をおこなっています。ただし、シカの密度が多いと好まない樹種でも食べてしまうので、森林再生のためには一定のレベルまでシカの密度を下げる捕獲対策が前提になるのは言うまでもありません。また、シカの好まない樹種は低木が多く、高木種が少ないというのも森林再生を進めるうえでの課題の一つです。

今後、どのような研究や活動をしていきたいですか。

人工林が成熟して、これからどんどん伐採し利用していく状況になるのですが、伐採後の森林の再生をシカの食害から護ることが非常に問題になってくるでしょう。現状は伐採した樹木を販売するだけならば採算ベースには乗るのですが、伐採跡地に再植林してシカよけの柵を張ると赤字になってしまうのですね。そうすると再植林されないままに放置される場所が増えます。、そんな場所がシカの食害で荒廃すると、土壌緊縛機能などが低下し、豪雨時に崩壊する怖れがあるので、そのような林地を発生させない対策を考えていかないといけないと思います。